仏教では煩悩を捨て去ることを目標の一つとして挙げられています。煩悩とは心身にまといつき心をかき乱す欲望や妄念のことを言うそうです。これは決して快楽に溺れるだけの意味で使われることではないと思います。

時には自分に嫌気がさして、自暴自棄になったり、暗い気持ちになったりします。

ストイックな人は自分を責めて責めて責め抜いてしまうかもしれません。

自分の本心と向き合っているのか

自分の本当の気持ちって理解できていますか?正直私は自分自身の本心を理解できていません。

見栄を張ったりするのが自分の本心でないことくらいわかっているつもりです。虚栄や保身も反射的にしてしまいます。自分に正直にいるためには、周囲に対しても正直であるべきなのではとも思います。

この私は私なのか?

かなり難しいテーマになってきていて、記事の軌道修正が出来ていません。割と思いつくままに書いています。

この見栄や虚栄、保身をしている自分は本当の自分なのでしょうか?自分の心の底から出てくるものなのでしょうか?

反射的にやってしまっている行為ですので、その意味では本能的、心の底からの行動なのだと思います。でも、そんな自分に嫌気がさしてしまうことも事実です。

心の奥底から湧いて出てくる好奇心のようなものも確かに存在します。その感覚に従って行動したら、達成感や幸福感というかそういった感情がやってきます。

煩悩のある私も私

煩悩を捨て去ることはなかなか難しいです。成り行きに任せようと思っても何かしらの感情がやってきます。煩悩をうまく飼いならすというか、悩み苦しんでいる私も私なのだと受け入れてしまうのもいいかもしれません。

うれしい時も苦しい時もそのすべてが私です。

もしこれが夢の中だったら

夢の中の自分は、自分の好きな時に夢から覚めることができません。たとえそれが辛い夢だったとしても、長い夢だったとしても。

夢の中だったら普段起こらないような出来事であったとしても、平気で発生してきます。

楽しい夢だったとしたら、ずっと夢の中で生きていたくなります。このまま永遠に時が過ぎていけばいいのにと思っています。たとえ、夢から覚めてその夢の内容そのものを忘れてしまったとしても。いい夢を見たという達成感やうれしい気持ちは目が覚めてからもなんとなく感覚の中で覚えています。

辛い夢だったとしたら、夢なら早く覚めてくれと願ったとしても、夢の中の自分はこれが夢だとはわかりません。もしかするとなんとなく夢だと分かっていても、自分の本能としての行動をとっても、夢の中なのだから犯罪でも何でもないのに、世間体を気にするようなことはしなくてもいいのに。それでも夢の中でも周りを気にしながら、自分の気持ちと葛藤しながら、夢の中で行動しています。そういう時は、目覚めも胸くそ悪い感じになったりします。

まぁ目が覚めたら大部分忘れてしまうのですけれどね。

人生は夢?

誰しも必ず天寿を全うするときがきます。もしこれが、数十年続く長い夢だったのだとしたら、夢から覚める時、自分が納得できる人生を送ることができていたのでしょうか。自分で人生の最後、夢からの覚め方を選べるのでしょうか。

歳は誰もが取ります。身体は弱り、五感は鈍り、それでも認知症にさえなっていなければ、意識ははっきりとしています。日々、自分が老いていくのみの中で、いったい何を考えるのでしょうか?

子どもや孫は元気にやっているのか?お金は生活できるくらいはあるのか?自分は幸せだったのか?そんなことを考えながら人生の夢から覚めるのを待っているのかもしれません。

夢から覚めた時、達成感やうれしい気持ちは得られるのでしょうか?満足してあの世へいけるのでしょうか?

まとめ

とりとめもなく、徒然なるままに書いてみました。結局最後は疑問で終わるだけです。この問いに自分なりの答えを見つけることができるのでしょうか?というか問いはそもそもなんだっけ?

煩悩の話をしようとしたら、いつの間にか死ぬ直前どうなっているのかなという話になっていました。論理的な記事ではないですね。反省です